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2016/02/29

村上隆 (芸術家)

うちのアメリカ人旦那は、村上隆が好きだ。不思議だな。
 
いま、六本木ヒルズにある森美術館で、「村上隆の五百羅漢図」展を開催している。3月6日までだ。
 
 
村上氏は、「しゃちょう」「おはな」などの六本木ヒルズのお土産をデザインした人で、このビルにはオープン前から縁が深い。
 
もともと、漫画やアニメの世界に触れたのがアートにかかわる出発点だった人なので、絵柄も、正直言って、漫画っぽい。
しかし、五百羅漢図は、最初、カタールに展示され、その後日本に持ち帰って加筆を行ったものを展示しているが、スケールは半端ではなかった。
村上氏は、この羅漢図を完成させるため、美術学校などから、総勢200名もの学生を採用して制作にあたらせた、という。
カネのかかりかた、想像を絶する。
実際、村上氏自身、
「芸術は清貧なもの、という世間一般のイメージは間違っている。芸術は、作品に対する購買者のレベルが上がるにつれ、さらにカネをかけて高度なものを作っていかねば振り向いてもらえない」
と述べているようだ。そういわれればそうだと思う。人を納得させる現代芸術は、カネがかかっているのだな。
 
太っ腹だと思ったのは、この展示、撮影OKだったこと。


 







下のは、DOB君。



骸骨をモチーフに描くのがお好きみたい。





ちょうど時期が重なっているが、横浜美術館で、村上氏の個人的なコレクションを展示している。4月3日まで。
これも追って行こうかな。
 
 
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2016/02/28

食肉処理と「屠殺」

だいぶ前、どころか、軽く10年以上は前のことだった、と思う。
TVで、アナウンサーが「屠殺(とさつ)」という言葉を使ったあと、CMが入った。私は何も気にせずにいたが、CMが終わった後、そのアナウンサーが、
「先ほど、屠殺という言葉を使用いたしましたが、現在では『食肉処理』と言うとのご指摘をいただきました。お詫びして、訂正いたします」
と、撤回と謝罪をしたのだ。へえ、屠殺って、差別用語だったのか、と思った。どういう方面の人たちから入れられたクレームかは容易に想像できる。
しかし、「屠場(とじょう)」という言葉はOKらしい。「屠畜場(とちくじょう)」でも良いらしいが。「屠(と)」という漢字自体、滅多に見なくなり、ほぼ「と」とかな書きされている。

東京だと、品川駅のま東に食肉市場があって、そこで牛や豚などを処分しているという。品川って、なぜか、西口に比べて東口は、人が行きかう繁華街ではなかった。最近でこそ、やっとビルも建つようになったけれど。大昔、刑場があった鈴ヶ森は、もう少し南側だから、それは関係ないだろう。

屠場で処理される食用獣肉は、法律により、「牛、豚、馬、めん羊、やぎ」の5種類に定められていることを最近知った。鶏、つまり「家禽」は、別の法律で「食鳥処理」として定められていることも知った。
ということは、いわゆる「ジビエ」は、法律の対象外で、撃った人が自由にばらして食べることができるのだ。知らなかった。

屠場は、場所によっては、見学させてもらえるらしい、が、私は機会があっても絶対行く気にならない。
スーパーでスライスされた肉たちの元の姿をいちいち考えないで食べていられるのは、良いことなのだろうか。いちいち考えていたら、食べていられないのは事実だが、「(ときには)考えること」と「(いつも)考えずに済むこと」の、どちらが大切なのだろうか。

屠殺、という言葉を差別用語だというのは、正直、納得が行かない。その中で働いている人々を差別することは断じて許されないが、それと、言葉を使わせないのは、別問題だと、いつもの説を改めて繰り返す。

2016/02/27

人口減少と「死ぬマナー」

この頃、やっとこさっとこ、東横線渋谷駅から、目的とする地上の場所に真っ直ぐ浮上できるようになった。
しかし、渋谷は、いつでも人が多い。特に、若い人。ここだけ見ていると、少子高齢化なんて、ほかの国の話かと思う。

1920年に国勢調査を行い始めて以来、日本の人口が初めて前年を下回った、と、大きく報道されていた。
予想されていたことだったが、ついに現実となった。
2014年より人口が増えている県は、東京、千葉、埼玉、神奈川、愛知、滋賀、福岡、沖縄のみ。大都市集中が見て取れる。沖縄は、もともと、子供を多く産む土地柄だと思うけど、本土から移住する人が多いと思われる。
一番減少率が大きかったのは、母の里である秋田。福島より減っている。秋田は、住むにしても、仕事も何もなさそうだから、移住希望者が出るとは思えない。私も、何十年も行っていない。叔母とかいとこなんて、すれちがっても絶対顔がわからない。

そもそも論だが、日本の国土に最適な人口とは、何人くらいなのだろう。
江戸時代の終わりには、ほぼ3000万人程度だったらしい。今の4分の1だ。
勿論、年齢層は今よりぐーっと若く、これほどまでに老人はいなかったし、国民の仕事や生活も今とは激しく違っていたけれど、数としては、3000万人で国としてやっていけたのだ。

出産をしたことがない私がこんなことを言うのもなんだけど、出産とはかなり「原始的な」行為だと思っている。
不思議なもので、世界的に共通するのは、文明が発達した土地では、自然と出産数が減る。医療が発達して子供が死ななくなるし、女性も教養が高くなり、妊娠出産以外に、文化的な行動を維持するのにお金と時間がかかるからだ。
これに対し、文明の低い土地では、よく死ぬ分、よく産む。また、不思議なもので、内戦などで明日をもしれない土地の女たちも、戦火の下で何やっているんだ、と思うが、よく子供を産む。明日死ぬかもしれない、という状況だと、女は妊娠しやすくなる、と聞いた。生物の種族保存の本能だ、と思う。

しかし、日本も、もし、これから第三次世界大戦突入したら、あるいは、前代未聞の伝染病が流行したら、種族保存の本能が働いて、人口が再度増加に転じるか、と聞かれたら、どうもYesとは言い難い。多産の本能は、いったん女性たちから廃れたら、復活は困難そうな気がする。

この頃、親の介護問題でメールをし合っている友達と意見が一致するのは、「意思表示カード」のことだ。認知症をはじめ、不治の病にかかった場合は、私を安楽死させてください、というカードを、意識がしっかりしている間に書いて持ち歩く、あるいは、どこかに登録しておくのだ。私も彼女も子供が無い。呆けたま生きて人様に迷惑をかけないのは、後世に対するマナーだ。二言目には「人権」を主張する方々もおられるけれど、安楽死させてもらう方が、私にとっては「人権」にかなっている。





2016/02/26

おいしい「嬉野茶」

2月19日に、「おいしくないお茶(残念)」というネタを書きました。


そうしましたら、九州にお住まいの方々から「嬉野茶」を勧められました。
ここ横浜では、売っているお茶ではやはり隣県の静岡茶が一番多く、次いで、京都(宇治)のお茶が多いですね。あと、良く見ますと、それらに次いで「八女茶(福岡県)」、「知覧茶(鹿児島県)」が多いのが意外な気もしました。九州って、茶所なんですね。意外や意外。あと、たまに埼玉県の「狭山茶」もあります。

横浜高島屋には「嬉野茶」売っていませんでしたので、横浜そごうに足を伸ばしたら、1軒だけ、「嬉野茶」を扱っている店舗がありました。伊藤園でした。



淹れてみたら、とろっとした丸みがあり、大変美味しかったです。
昔、京都に住んでいたときに愛好していた宇治茶の風味にも似ていました。
ロッキーさん、から2さん、ありがとうございました。
私、九州って本当になじみがない土地で、これまで2回しか旅行に行ったことがありません。心理的にはアメリカより遠いくらいで(失礼)すが、唐津産の玉ねぎといい、九州、というか佐賀県、いろいろお世話になります。

・・・・しかし、100グラム1200円+96円。これで美味しくなかったら立ち直れないけど。


2016/02/24

悲しすぎる老夫

こんなニュース。ひとごととは思えなくて、泣きそうになった。

介護に疲れ妻殺害容疑で逮捕の夫、食事拒み続け死亡
TBS系(JNN) 2月24日(水)0時16分配信
 介護に疲れ、無理心中を図ろうと妻を殺害したとして逮捕された83歳の夫が、その後、食事を拒み続け死亡しました。

 今月5日、埼玉県小川町の住宅で、國崎誠一容疑者(83)が妻の恭子さん(77)を刺して殺害したとして逮捕されました。

 國崎容疑者は自分の首や手首も切っていて、「認知症の妻の介護に疲れ、殺した」と警察に話しましたが、その後、食事をほとんどとらなかったということです。

 警察は國崎容疑者を今月17日に入院させ、点滴で栄養補給をしましたが、病院でも食事をとらず、23日に死亡しました。警察は「取り調べにもほとんど応じず、なぜ食事を拒んだかわからない」としています。(23日22:30)

「なぜ食事を拒んだかわからない」
警察は、どうしてこんな白々しい回答をするのだろう。
誰がどう見ても、妻の後を追うために、自ら餓死を選んだとしか思えない。

この年代の男性は、周囲にヘルプを求めるのが苦手。
なんでも自分だけで抱え込み、自分だけで解決しようとする傾向があると思う。
子供もいたそうだが、結局、認知症の配偶者をもう一方の高齢配偶者が殺すという、典型的パターンになってしまった。
昨年の統計だと、認知症の妻を夫が殺したケースは34件、これに対し、認知症の夫を妻が殺したケースは10件だったという(未遂を含む)。
私も母を介護施設にお願いしている身である。
母の介護を自力だけでやろうとすると、3日も持たないだろう。
年末年始引き取っただけで発狂しそうになった。



2016/02/23

昭和の母

私くらいの年になると、周りの友人らも、片親が殆どで、中には両親がいなくなった人もいる。親が存命だとしても、介護とか老人ホームの問題が切実になってきている。

昭和の母は、ほとんどが専業主婦だった。
たまにはパートとか内職(←ふ、古い言葉)などをしたこともあったけど、母とは、いつも家に居る人だった。

友人らと話していてひどく意見が一致するのが、
「昭和の母親って、どうしてあんなに『たまにしか来ないお客』にあれこれ気をもみ、備えたがるのか」
ということであった。この意見の一致が、妙に盛り上がる。

父がまだ生きていたときの私の母もそうだった。ある時、母の様子を見に行くと、急に、椅子が2脚も置いてある。まだ梱包から解いたばかりの様子。
「これ、どうしたの?」
と聞くと、年に1回か2回しか来ない親戚が来たら、座ってもらおうと思って買った、と言った。
「それ以外、364日か363日、どこに置いておくつもり??」
私が追及しても返事をしない。あんなに極小スペースに住んでいたのに、何を考えているんだか。たまにしか来ないのだったら、うちはこれしかスペースがありませんので、申し訳ないけどこのスペースで我慢して座ってください、と言って納得してもらえばいいでしょう!と私は母を叱りとばし、椅子は返却させた。

また、ある時は、こたつの注文伝票を発見した。これも、年賀に1回来るかどうかのお客のために、買おうと思ったのだという。私は、上記同様の理由で母を叱り飛ばし、注文はキャンセルさせた。

友人たちから、
「なんで昔の母親たちってああだったんだろうね。客なんてたまにしか来ないくせに、あれこれ買うんだよね。うちなんか、法事に来る客のために、客布団なんか買ったんだよ」
なんて話を聞く。
「んな、数年に1回、来るか来ないかの客のために?」
「そうだよ、でも客なんて来ないよ、うちには」
「どうしてもどこかに泊まらないといけないんだったら、ホテル代払ってやった方がいいよねえ」
「そうそう、お金で解決する方が、モノがあるよりいい」

昭和の母の娘たちは、ドライすぎるのだろうか。親戚付き合い、というものが億劫である。
私の父は、いやというほど家に客を連れてきて、わあわあ、わあわあ、必要もない大騒ぎをし、母と私がてんてこ舞いになってもてなした。客が帰ったあと、必ずと言っていいほど両親は喧嘩したので、それもいやでいやで、私は家に人を招くのが大嫌いになった。幸い、アメリカ人旦那も、家に人を呼ぶのがタブーな家庭環境で育ったので、何も支障は無かった。

こういうのを、非社交的、って言うのだろうか。いまの日本の会社に勤めるサラリーマンたちは、上司の家に呼ばれたり、同僚の家に行ったり、日曜日に接待ゴルフなどするのだろうか。外資系だと、まずないけど。

昭和の父と母が死ぬと、食器、布団などの物が膨大で、処分に困る。
2016/02/22

ニアピンだ、悔しいなぁ~~ 「キャラクター愛称募集」

白人には全く珍しくもないが、旦那がハゲなので、カツラメーカーとか、ハゲ治療の広告があるとつい見てしまう。
さて、先月、カツラではなくて、植毛により、ハゲの男性を救済する「ニドー」という会社で、イメージキャラクターの愛称を公募していたのを知った。1月15日が締め切りであった。



この子、毛根をモチーフにしているんだろう。
ちょっと考えて、植毛の「植える」と、英語の「Well」をかけた、「うえ~る君」という名前を思いつき、送った。
発表は2月上旬とあったが、応募多数だったのか、少しズレた。
で、今日その結果を知った。


「ウエル君」だって~~~~!!!
お寄せいただいた作品には、(中略)、同一名はもちろん、微妙なところで異なる類似した作品も数多く頂きました。

だって。
え~、悔しいなあ。
賞金は、10万円だった。ニアピン賞くらい、くれないかしら。
2016/02/21

地獄変 (芥川龍之介)

私は、日本の古典とか文豪による名作というものを、自発的に読んだ記憶がほとんどない。
わずかに読んだとしたら、学校の教科書に出ていたものくらいである。そう思うと、国語の教科書とは有り難いものだ。

ある人に勧められて、芥川の「地獄門」なる作品を読んでみた。大正7年の短編である。

私などが話を要約するのもはばかられるのだが、武家時代の絵師の話である。
京都に、良秀という、小柄で身分卑しい殿さまお抱えの絵師がいた、しかし、絵師としての腕前は当代随一であった。
この老人(年は50ほど。当時の50は十分老人であった)には、父に似ても似つかぬほど美しく愛らしい娘がいた。年は15。絵師は、この娘を、気が狂うほど可愛がっていた。
お殿様は、この娘を、女房として殿中に仕えさせていた。別に、この娘に対し、よこしまな気持ちを抱えていたわけではない、と文中には再々説明があったが、文中、「誰に」とは書かれぬまま、娘の身に一大事が起こりそうなところ、殿中で飼われ、この娘に大層なついていた小猿(父をからかうため、父と同じ「良秀」という名がつけられていた)の機転により、難を逃れ、乱れた着衣のまま部屋から娘が出てきたシーンがある。

ところで、この絵師に対し、殿は、「地獄絵図」を描くよう命ずる。父はこれを受け、尋常ならぬ集力でこれをほぼ完成させるが、一点、ある願いがあり、殿様の前に申し出た。
「私は、実際に見たものでなければ描けない。この地獄絵に、牛車からまろび出る女官が、火にあぶられ、焼け死ぬところを描きたいが、見たことが無いので描けない。つきましては、それがしの目前で、牛車を一台、火にかけていただきたい」
と所望する。
殿は、それを応諾した。場所は、殿中ではなく、殿の妹がすごした山荘に、絵師らを呼んだ。
そのきらびやかな牛車の中には、ひとり、罪を犯した女房が、鎖につながれたまま乗せられていた。殿は、その女が四苦八苦のうちに焼け死ぬ様を見るが良い、と言い放ち、牛車に火をかけさせた。「罪人の女房」とは、ほかならぬ、絵師の娘であった。
絵師は、誰よりもいつくしんできた実の娘が、断末魔の叫びの中、火であぶり殺されていくさまを、両のまなこをかっと見開き、食い入るように見つめ続けた。
その後、絵師が完成させた地獄変の屏風は、殿様に届けられた。娘を目の前で焼き殺された光景が、そのまま描きこまれ、おぞましいほどの迫力があるものであった。殿は「でかした」と絵師をほめたたえた。
しかし、絵師は、その次の日、自ら首をくくって果てた。

===
頭が良すぎて自殺するような作家は、書くものにも猟奇的なものを残すのだろうか。
ちなみに、自殺した年齢を調べたら、わずか35歳であった。
35歳で、文豪とか日本の歴史に残る大作家と呼ばれ、賞に名を残すのか。
そういえば、モーツァルトも35歳で死去している。関係ないが、奇遇である


2016/02/20

クズの使途

ある時のイエローペーパーの見出し。

「清原 留置場で自殺」
ええっ??っと思ってよく見たら、
「清原 留置場で自殺

よくある、「か」だけが非常に小さい見出し。一瞬ぎょっとしたが、この男、仮に娑婆に出たとしても、まともに生きていく道はないに等しいのではないか。堅気の世界の再就職は無理だろう。実家は「清原商会」という電気屋さんをやっていたはずだが、そこに戻ったとしても、まともな客がつくはずもないし。裏の世界に入りこむか、最悪、この夕刊紙の見出しのような運命を選ぶ可能性もゼロではないだろう。
蛇足だけど、彼は、Gのユニフォームが似合わなかった。西武に居続けた方がよかった。

最近、スクープを連発している「センテンススプリング」だが、なんと、元少年Aに接触をしたらしい。
真偽のほどは定かではないが、その住所も、下町の公団住宅だと噂で聞いた。
そうだとしたら、そこに住む人々がお気の毒でならない。
10代前半からの殺人鬼であったのに、未成年だというだけで、執拗に「人権、更生の余地」と保護され、弁護され、死刑にもならずに娑婆を歩いている。近くに住みたくない、すれ違うのすらごめんだという一般大衆の希望は、未成年の人権保護の美名のもとに無視される。何という大迷惑であろう。もし仮に、彼が今後再度犯罪を犯したとしたって、未成年時代の弁護士も、裁判官も、彼の更生に当たった少年院の担当者も、誰一人として責任を取らない。

このような、更生の余地のない、あるいは、隣に住んでいて欲しくない犯罪人であっても、皆に感謝され、国の役に立つ方法を考えている。
それは、領有権問題のある離島に住まわせることだ。
尖閣諸島、竹島、北方領土などに、ただひたすら住まわせるのだ。往来の自由はなく、本土には、戻って来させない。
食糧や住居は、国税で支給してやって良い。現物支給で、現金は不要である。
離島ならば、シャブの入手ルートは存在しないから、二度とシャブに手は出せない。これ以上の薬断ちはない。
殺人鬼など、隣に住んでもらいたくない人間も集めて住まわせる。死ぬまで、そこに住んでいてもらう。前科者同士、殺し合っても構わん。一般人が巻き込まれない方が余程大切である。
これらは、「日本人が住む島」という既成事実を作ることと交換に、税金を拠出するのだから、準公務員的な待遇である。能天気な人権派弁護士などが、
「居住、移転、職業選択の自由を定めた憲法第22条に違反する」
などとほざくかもしれないが、それを上回る特別立法で対処すればよい。
とにかく、日本人がいないようなところに、日本国籍を持つものとして、「住まわせる」のである。領有権を主張しても相手にされないのは、日本国民が誰も住んでいないことも大いにある。だから、誰か体を張って住め、ということ。
国民に感謝され、国の役に立つ。シャブは断たれ、一般市民の平穏も保たれる。住むだけで、十分仕事になる。クズでもできる貢献である。それなら、税金で養ってやっても良い。
マジで考えてくれないかな。



2016/02/19

おいしくないお茶(残念)

私は、コーヒーが好きでなくて緑茶が好きなのだが、それを知っている親族から、毎年、年始にお茶をいただく。
100グラム入りの年賀バージョンだ。今年のパッケージには猿が描いてあった。
わざわざデパートに行って買ってくださる心遣いは大変有り難く、喜んで受け取るのだが、しかし、このお茶、どう頑張って淹れても美味しくないのだ。ちゃんと、沸騰した湯を70度くらいにさまし、茶の量をはかり、1分間待って、といろいろやっているが、まずい。

この販売元は「F園」といい、デパ地下にはよく入っているようだ。試飲はさせていない。物を見せ、値段を見せて、買わせているわけだ。

いくらデパ地下で良く見る有名なお茶屋であっても、このお茶より、近所のスーパーで100グラム900円くらいで売っているお茶の方が数段美味しいと思う。しかし、そんなことこの親族には言えないので、毎年、喜ぶ演技をしながら、困っている。

京都に住んでいたときは、歩いてすぐの近所に、これまた有名な「○○堂」という老舗のお茶屋さんがあった。ここも、デパ地下によく見るが、値段のわりに、味はどうにもこうにも。やっぱりスーパーの100グラム900円のお茶の方が美味しい。たしか、ここも試飲はさせていない。
「100グラム1万円くらいのを買わなあきまへんえ」
ということなのだろうか。
この頃、街中のお茶屋さんの軒数も少なくなってきたような気がする。以前、横浜駅地下に、試飲をさせてくれるお茶屋さんがあって、専らそこで買っていたのだけど、そこは、ビル全体の建て替えのために、なくなってしまった。最近、デパートの試飲コーナーでも騙されたことがあって、
試飲させてくれる店が見当たらず、困っている。スーパーで、包装を頼りに買っても、実際飲むまでわからないので、軽いばくちである。

とにかく、お茶は、販売元や銘柄じゃない。