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2011/01/31

日本人よ、簡単に謝るクセをやめよ

昨日、後楽園の遊園地で、4人乗りのジェットコースターから、34歳の男性が転落死するという痛ましい事故が発生した。
これを受けて、後楽園では、責任者複数名が記者会見し、深々と頭を下げ、亡くなった方のご冥福を祈る言葉とともに、この事故に対する謝罪の言葉を口にした。
 
っとっとっと。待てよ。
私だったら、哀悼の意は表しても、謝罪はしない。
今回の原因がまだ調査中だからだ。
 
聞けば、今回亡くなった人は、大変大柄だったという。大柄だった、といえば聞こえは良いが、きっと太鼓腹の肥満者だったのであろう。ならば、普通の人なら問題なく使える固定器具が、しっかりしまらなかったに違いない。日本人には、超肥満体の人が少ないため、固定器具にはまらないほどの腹の持ち主を想定して器具を、しかも、子供がメインのターゲットである遊園地のために造ることは少ないだろう。しかし、例外のない原則は無いというとおり、まれにこういう例外が来て、悪いことに、バイトの子しかチェック係がいなかったという。普段はバイトの子の「目視」だけで十分足りていたので、バイトの子も慣れっこになっていて、あまり真剣にチェックせずに済んでいたのであろう。しかし、例外さんが来て、その「例外」と「慣れ」のお陰で、最悪の事故が発生してしまった。
 
さて、弁護士が腐るほどいるアメリカだったら、早速訴訟になっているところだ。なにしろ、後楽園は「謝罪した」のだから。「謝罪した」とは、つまり、後楽園が落ち度を認めて、賠償責任があることを公言したことだ。後楽園は、最近、ボルトが落下するなどの事故が続いていたから、気弱になっている面もあろう。
 
日本人は、かくも、たやすく謝罪する。謝罪すれば、とりあえず批判が和らぐか、許してもらえる、という効果や習慣が日本にはある。がしかし、そんなのは日本くらいだ。
西欧人や支那人が、いかに謝罪しないかは、ちょっと彼らと付き合うだけでわかる。ちなみに、アメリカ人は、日本人と逆に、ささいなことにはすぐ謝るので、町で肩がぶつかっても謝らない日本人をいぶかる。しかし日本人は、アメリカ人なら絶対に謝らず、訴訟に持ち込むようなことの方を簡単に謝ってしまう。
日本人がこんなにも謝罪好きで、また、人に謝罪をさせるのが好きだから、海外でも全く同様に、簡単に謝罪する人が後を絶たない。政府なんか、66年前のことを、いまだウジウジ謝っている。
また、この国には、謝罪をさせて、勝者のように溜飲を下げるのが大好きなマスコミがいる。謝罪会見を、鬼の首を取ったような顔で報道する。仮に、今回会見した後楽園側に、私のような考えを持つ人がいて、
「ことの原因が判明するまで、謝罪は控えます」
なんて言おうものなら、駆けつけたマスゴミがどれほどいきり立つか、容易に想像できる。
日本人に言いたい。重度かつ、調査中のものごとであれば、本質がはっきりするまで、謝罪させて喜ぶ(としか私には思えない)悪しき習慣は、やめようではないか。日本人のこの癖は、地球が狭くなった現代では、非常に損だからである。「やめる」のが無理でも、少し勉強し、相手により「使い分ける」必要がある。
私は、あの薬害エイズ問題で、原告団が、ミドリ十字(当時)の役員達に土下座をさせて溜飲を下げている(としか思えない)光景をテレビで見て、へどが出そうになったのを覚えている。人間は、強制された謝罪で、心から謝るわけも無いのに。
 
話を、昨日後楽園で亡くなった男性に戻す。日本では、お亡くなりになった方を悪く言わないのはわかるけれど、腹の固定具がちゃんとしまらない状態で、子供がメインの、遠心力が付く遊具に乗ってしまったのも、自己責任上、うかつさがあったかもしれない。今後、後楽園には、「体重80キロ以上の方お断り」「ウエスト90センチ以上の方お断り」という表示があちこち出るに違いない。
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2011/01/29

愚劣な「日の丸・君が代訴訟」

実家では朝日(アカヒ)新聞を取っているのだが、その三面を見たら
「教員管理 処分は激減 日の丸・君が代訴訟 都教職員敗訴」
とあった。
こんなクズ教師どもが、いまだに395名もいるのだ。平成15年の都教育委員会の通達に従わなかったとして、処分されたことを不服とした教師ら395名が集団で都を相手に起こした裁判の控訴審判決が昨日東京高裁であったそうだが、一審の判決を取消し、教職員側の訴えを棄却した。
 
しかし、いつも思う。
そんなに自分の国の国歌、国旗が嫌いなら、外国へ移住するなり、公立学校の教員になどならなければ済む話だ。だのに、彼らときたら、移住もせず、日本人として日本人の子供を教育する公立学校での教員という職業を、自分の意思で敢えて選択している。職業選択と思想が全く矛盾しているのがわからないのだろうか。
私が昔勤めていた会社で散々てこずらされたアカ組合員どもは、5時になるまでろくすっぽ働かなかったくせに、会社に「この会社は冷たい。休みをたくさん、給料もたくさんくれ」と要求ばかりしていた。私が卑怯だと思っていたのは、それなら、そんないやな会社など辞め、自分らで新しく会社を立ち上げ、理想どおり、給料と休みをたくさん出すようにすればいいのに、そんなことは一切せず、ただただ会社にダニのようにたかって要求ばかりしていたのである。彼らも内心は、そんな給料と休みをくれる会社など立ち行かないことは知っているに違いない。主張と行動が一致していない点では、似ている。
話がそれたが、驚いたのは、一審の地裁判決(平成18年)では、都教員の訴えを認め、式典で日の丸に起立し、君が代を斉唱するよう強要され、精神的苦痛を受けた」としたほか、日の丸と君が代を「終戦まで軍国主義思想の精神的支柱だったのは歴史的事実」として、原告側勝訴としたという。
なんとも左巻きの裁判官がいたものである。原告団は上告するそうだが、上級審である高裁でこの判決が出たからには、やるだけ無駄であろう。
 
国歌や国旗に対し、立ち上がり、誠意を表すのは、世界中どの国でもごく当たり前の話で、思想信条などを超えた、最低限のマナーである。アメリカ国歌だって、歌詞はすさまじい戦争の歌だが、野球などスポーツの試合の前には必ず斉唱され、選手のみならず観客もみな起立し、胸に手をあて、星条旗をじっと見つめる。なんとも美しい光景である。「日本に原爆を落とした旗、ベトナム人を殺した旗」などとたわごとを言う人は聞いたことが無い。国旗と国歌に誠意を示すのは、嫌いとか好きを超えた、単なる常識の範囲である。もちろん好きなら尚良いが、嫌いであっても、マナーとして、守るものは守る。それほど嫌いなら、繰り返すが、日本を出るか、公立学校の教員など辞めて転職すれば良い話である。こんな教師どもに教えられた子供たちが、海外で、国旗や国歌に礼節を示すことなど皆目教わっていないから、恥をかき、現地の人の顰蹙を買うのである。
 
自分の国の国旗や国歌でここまで教員がもめ、せっかくの式典が台無しになる国など、日本以外にあるのだろうか。いかにも自虐思想の好きな日本人らしいが、狂気の沙汰である。いつか広島県で高校の校長が自殺に追い込まれた事件は記憶に新しい。左巻きに殺されたも同然である。
都の教育委員会は、こんな頭が悪くてしつけのなっていない教師どもを、こんなにまでして鍛えてやらなければならないなんて、なんという苦労だろう。しかし都教委を応援するぞ。
 
[追記]
同朝日新聞によると、
「(卒業)式のたびにつらい思いをする先生がいる。
1審判決の時には現場がパッと明るくなったが、
これでまた重苦しい雰囲気が強まる」
と原告の一人の50代の男性教師は言ったそうです。
この人は、式典に出ると日の丸を見たり君が代を聞いたりするのがいやなので
外で警備係をしているのだそうですが、校長から
「起立・斉唱ができないのなら、(式に出席する)学級担任は任せられない」といわれたこともあり、
教え子が卒業していくのを見ることができなくてつらい
のだそうです。
50過ぎてもこんな捻じ曲がった教師に教わる生徒らも本当に気の毒です。
学級担任を任せられないと言った校長の方が正しいです。
 
 
 
 
2011/01/27

1000兆円、って、いくらだろう

国の借金が、なんだかんだで、1000兆円あるそうだ。
せん、ちょう、えん・・・・
幾らだろう。言われても、さっぱりわからない。
 
試しに数字で書いてみる。
 
1000000000000000円
 
私は、万進法の日本で、数字を3桁で区切るのは、内心、非常に意味のないことだと思っている。
よって、以下のように表記してみる。
 
1000,0000,0000,0000円
 
やっぱり、日本では数字は4桁区切りにすべきだなあ。簡単に読める。
あ、話がそれた。
 
日本の人口をざっくり1億人とすると、一人頭1000,0000円(1000万円)の借金を抱えていることになる。
 
・・・・返せるわけが無い。
 
かくして、アメリカの格付け会社、スタンダード&プアーズ社が、日本の国債を、「ダブルA」から「ダブルAマイナス」に格下げした。これを受けて、外国為替市場では、円が売られたというが、それでもまだ82~83円の円高を保っているのは何故なのだろう。
 
このままでは、国家がいつか「徳政令」を出すに違いない。
しかし「埋蔵金」はどこに行ったのだ。「無駄使いの徹底削減」はどうしたのだ。「公務員の減員」は少しでも進んだのか。
元財務大臣の菅の国会答弁を見ていると、何の希望も浮かんで来ない。
 
2011/01/26

動詞「炊く」と「くくる」

新婚時代は、夫の仕事のために京都で暮らした。言葉も文化も違う土地で、それこそ言葉も文化も大違いの旦那を連れて、よく頑張ったなと我ながら思う。若くて無謀だったからできたことだ。
さて、京都に住んでいて違和感を覚えた二つの動詞について書こうと思う。一つ目は「炊く」である。
京都ではよく、食べ物に「さん」を付ける。芋、豆、油揚げなどは「お芋さん」「お豆さん」「お揚げさん」である。京らしいと言えば言えるのだが、私は聞いていてむずかゆい。ま、それは置いておき、京都では、それらの調理方法を「炊く」というのである。私が「豆の煮物」「芋の煮転がし」「油揚げの含め煮」などと言うのに対し、「お豆さん(お芋さん)(お揚げさん)の炊いたん」という。「炊いたん」とは、土星の衛星ではなく、「炊いたもの」つまり、「煮物」のことである。私は、京都で短期間、地元のおばちゃんたちに混ざってパート勤めをしたことがあるが、彼女等とのランチタイムに彼女らが「お茄子とお揚げさんの炊いたん」など食べていたとき、
「東京では、『炊く』は、ご飯を炊くときの動詞以外には使いません。野菜や豆は『煮る』と言わないと通じません」
と言ったら、周囲はマジでシーンと固まってしまった
時々、NHKの料理番組に、京都の老舗料亭のご主人が講師として出演することがある。料理の名前は、標準語ふうに「何々の煮物」という表示なのだが、この先生、「これを、炊いてもらって」「炊いてください」というように、いささかムキになって「炊く」という動詞を強調する。「煮る」とは絶対に言わない。きっと、内心では、
「京都では『煮物』なんて言わへんのや。炊いたん、やで」
と思いつつテレビに出ているのではないか。
山形県では、秋になると、河原で「芋煮会」を開く習慣があるが、愛媛県でも、同じような習慣があり、愛媛の場合は「芋炊き」というそうである。関西に限らず、西日本では、「煮る」という動詞を使わず、「炊く」という地域が多いのだろうか。でも「煮る」は、味の付いた煮汁で食材を加熱し(煮汁はあえて残して食材をひたしておく場合が多い)、「炊く」は、水にひたした食材(ほぼコメ)を加熱し、水を吸わせ切る調理法だと思うのだが。そもそも「煮汁」とは言うが、「炊き汁」と言うのだろうか。
 
もう一つ京都でギャップを感じた動詞は「くくる」である。「首をくく」「木で鼻をくくったような」「腹をくく」など、この動詞はポジティブな意味がない。しかし、京都ではまことによく聞いた。夏になって、髪の毛を後ろに束ねた時は、まっさきに
「あ、髪の毛くくってはるんですか」
と聞かれた。非常にいやな感じを覚えた私は、
「髪くくる、とは言わない」
と正直に言ったら、相手はびっくりして、それなら何て言うのか、と聞いたので
「結ぶ、とか、しばる、って言う」
と言ったら、彼女は驚き、
「結ぶ、ならまだわかりますけど、しばる、言うたら、縄でしばるみたいです」
と言った。はぁ、語感は土地によって違うものだ。しかし、私はそれでも「くく」はイヤだな。
母などはよく「いわく」と言っていた。これは正確には「結(ゆ)わく」「結(ゆ)わえる」であろう。
2011/01/25

シブ~い蕎麦屋「神田錦町 更科」

私は子供のとき長野で育ったため、蕎麦が好きだ。が、長野にいたときのように、美味しい、自分好みだ、と思える店になかなか出会えないのもまた事実。
 
今日のランチは、kanazawa sanetoki2004さんの影響で、鴨南蛮にしようと思った。
行った先は、神田錦町の更科(千代田区神田錦町3-14)。
どう、この店構えのシブいこと。昭和どころか、明治のかおり(?)がただようようだ。
 
 

 
入り口のupです。「江戸神田蕎麦の会」という看板が立てられています。
 

入り口の左側には、
 

 
こんなシブい看板もかかっています。
これに似た看板って、麻布の永坂更科 布屋太兵衛でも見た。
分店ですもんね、独立するとき、看板も書いてもらったのでしょう。
 
さて、メニューを見たら、鴨南蛮は、ぬわんと、1400円。
げ。
いくら鴨は安くないとはいえ、蕎麦1杯に4桁はらう気は、ちょっと、今日は。
で、豚南蛮に格下げした(900円)。せこいかな。
 
これが豚南蛮。
 

 
「南蛮」なのに、どうして刻み葱までご丁寧についているのか、わからん。しかし熱い蕎麦なのに、蕎麦湯も持ってきてくれだぞ。よしよし。
 
味は、う~ん、もうちょっとみりんが足されて、まろい味のつゆだと私好みなんだけどなあ。
しかし、昔は江戸っ子の「おやつ」だった蕎麦を、この店は「食事」という分量で、どど~んと出してくれる。それはすごい。蕎麦でおなかが一杯になるなんて、滅多に無い。ここからほど近い「柳屋(千代田区神田神保町1)」では、本当にお上品な量を出してくるのだが、ここは違う。
 
家族経営の店って、店内を見慣れてしまうのだろう、床にビール瓶、ビール瓶ケース、ダンボールなどが無造作に置かれ、どうでもいいや、蕎麦さえ出していればいいんでしょ、状態になっている。惜しい。私が食べている横で、店のおかみさんと若旦那(といっても中年)が、沢山の小封筒に、節分の豆まき用の豆をせっせと詰めていた。ご近所などに配るのだろう。神田あたりだと、そういう付き合いはいまだ深いのではないか。
 
鴨といえば、昔、京都に住んでいたとき、鴨川に、それこそ無数の鴨が住んでいた。
あるイギリス人が、それを見て、
「なんで日本人は鴨をとっつかまえて食わないんだろう」
と言ったそうである。
鴨が高いなら、むしろ安心なのだろうな。安かったら、出処があやしいカモ。
 
この店、日替わり、月替わり?などで、臨時メニューは手書きされ、結構豊富なようだ。
 

 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
2011/01/24

日本国憲法の「理想論」

昨日、憲法25条にまつわる「人権」のとどまるところを知らない拡大解釈と、それに伴う莫大な税金の拠出について書いた。
どうも、とかく都合のいいとこばかり拡大解釈させたがり、勤労の義務などは二の次三の次になっている傾向だ。なげかわしい。
 
さて、憲法と言えば、以前にも書いたのだが、なぜ日本一国だけ、丸腰になることが、正しいことなのか、さっぱりわからない。戦後、文部省が配布した「あたらしい憲法のはなし」という小冊子の中に、日本が戦力を放棄したこと、そして、世の中に正しいことぐらい強いものはないのだから、けっして心ぼそく思うことはありません、と書いていたけど、日本一国だけ丸腰になって、なぜ心細くないのか、ちっともわからない。少なくとも、私は心細いぞ。
日本国憲法の前文(中学のとき暗記させられたなあ)に、
「平和を愛する諸国民の公正と信義に信頼して、われらの安全と生存を保持しようと決意した」
とある。
・・・・なんというお人よし。なんという机上の空論。
単純に解釈すれば、
「他国はいい人たちばかりで、悪いことなんか考える人はいない、絶対に日本を攻めてくることなんかない、と信じていれば、安全、安心」
という意味になる。
んな、ばかな、と思うのは、私だけだろうか。
北朝鮮や支那が読んだら、どれほど高笑いすることか。
 
 
2011/01/23

生活保護費 3兆円超す

昨日のアサヒ新聞の1面に出ていた。2009年度に支払われた生活保護費が、ついに3兆円を超えたのだ、という。3兆円なんていわれても、いくらだかよく分からないので、日本の人口をざっくり1億人、とすると、一人あたま3万円を負担している計算になった。げ。
2008年9月のリーマンショック以来、失業者が急増し、病気や怪我もなく働くことのできる労働年齢の受給者が急増したせいだという。
生活保護費は、国が4分の3、自治体が4分の1を負担しているが、どの自治体も火の車だという(当たり前である)。
とりわけ支出の多い都市部のうち、政令指定都市の市長会が昨年10月に国に要望した改革案では、
「働ける人間には、生活保護の支給に3~5年といった終期をもうけ、終期が来ても自立できない場合は、保護打ち切りも検討すべき」
としている。ふむ。
これもやむない案だと思って続きを読んでいたら、弁護士らでつくる会が
「生活保護に期限を設けることになり、生存権を保障した憲法25条に違反する。生活保護の増加は非正規雇用のどうかや社会保障の不備に原因があり、働く場を用意しなければ解決しない」
と反論したそうだ。
 
・・・・・
・・・・・・・
何から書こう?
 
弁護士ってなんじゃい、と思った。「人権」「人権」と主張するのはいいけど、その原資がどこから出てくるのは、これっぽっちも考えていない。そもそも、日本国憲法に定められている「義務」は、教育、勤労、納税の3つだけで、あとは権利ばかりである。この憲法が施行されてから、権利ばかり主張する輩と、それを後押しする弁護士が大量に生まれる結果となった。「生存権」などと言っても、それに伴う原資の確保について、憲法はひとこともふれてはいない。この権利について、有名な「朝日訴訟」(原告の朝日氏は、療養生活を送る共産党員であった)の高裁判決では、
「憲法25条が定める『健康で文化的な最低限の生活』とは、具体的に個々の国民に定められているものではなく、国の目標として、厚生大臣の裁量にゆだねられている」
とした。
本当に重度の障害を負っていたり、乳幼児の子育て中、老人や病人の介護中な人は除いていいから、それ以外の人は、基本的に、一生働かないとならない。リーマンショックのあとで思うような職に就けない人の存在もわかるけど、もっと質や希望を落とすなりしたら、食べていけるくらいの仕事はまだまだ沢山あるはずだ。それがないとしたら、日本国中、もっと行き倒れだらけになるはずなのに、そういう話も聞かない。「普通の健康な体をもっていながら、自分で自分の身がまかなえない人は、のたれ死んでもやむを得ないのだ」と言ったら言い過ぎだろうか。
それに、生活保護に頼るまえに、親とか兄弟とか親戚とかに恥をしのんで養ってもらえないものだろうか。すぐ税金に頼るという発想のなかった昔は、すくなくとも、親族が面倒を見ていたはずである。人間、一度税金で食べていけると、切羽つまって考えなくなる。きわめて危険である。
日本国憲法も、改正して、昔のソ連の憲法みたいに、「働かざるもの、食うべからず」と大書してはどうだろう。
 
生活保護受給者らは、公費を得ているのだから、体が健康なら、公立学校の清掃とか、ゴミ処理の手伝い、街路樹の落ち葉の始末とかを強制的にやらせてはどうだ。ただただ天からおかねが降ってくる状態を、人権屋さんたちは、しも理想的だと思うのであろうか。
 
膨大な社会保障費が、市債、都道府県債、国債という形で、数少ない若者達に、どんどん先送りされている。言うまでも無いが、政治家は絶対に責任を取らない。
 
もうちょっと話を続けると、国や自治体の会計帳簿には、重大な欠陥がある。
「単式簿記だ」ということだ。
私はかつて簿記も学んだのであるが、ご存じない方にざっと分かりやすい説明をすると、普通、家庭では、お父さんお母さんが稼いできた金を「収益」と計上する。そこから出るさまざまな費用を「支出」として計上する。収益を一方、支出を反対側の一方に記載していくと、損益計算書ができ、その時々の支出のバランスが見て取れる。比較してみて初めて、「ああ、今月は使いすぎた」「今月は黒字だわ」とわかる。
この損益計算書を積み上げていくと、その家計の、一定の期日の(月単位、年単位など)の財政状態が把握できる。これが「貸借対照表」である。これを見れば、左に資産、右に負債があり、その差が資本となり、当然、負債の方が大きければ、資本はマイナスになる。これが、どこの企業でも使っている複式簿記のしくみで、「入ってきたもの及びもともとあるもの」と、「出ていったもの」の「比較」ができる。
 
こんな基本的な帳簿を、日本国は採用していないのである。
毎年度はじめに、各省庁、各役所は、予算争奪に目の色を変えるが、基本、彼らは、つかみ取った予算を、ただ1年かけて使い切るだけである。貸借対照表上、どれほど資本の部が赤になっているか、など、みじんも考慮されない、単年度の単式簿記である。だから、2~3月になると、予算を全部使ってしまわねば、とばかりに、出張に行ったり、道路を掘り返したり、といった痴態狂態が、いくら批判されても、やむことが無い。家計のように、少しでも節約し、余った分は翌年に繰り越す、というのが、来年度の予算を減らされることを恐れる役人には、おそろしくタブーなのも、我々納税者の感覚といかに離れているか、ということである。
そんなわけで、複式簿記を採用してみればいいと思うのだが、それができないのは、なぜなのだろう?
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
2011/01/21

すわ、母に彼氏候補が?

父が死んで1年余り。母は、手のかかる頑固じじいから解放され、自由を謳歌しているようだ。男は、妻に先立たれるとすぐ死んでしまうが、女は逆で、夫が死んだあとは、実に楽しそうだ。
 
さて、母がときどき通っている歯科医が、ある老人センターで「歯をもたせるコツ」とかいう講演を行うというので、母は、「枯れ木も山のにぎわい」で行ってきた。ところが、肝心の「枯れ木」の数が少なく、定員15人のところ、その半分くらいしか椅子が埋まっていなかったという。おまけに、母は、ほとんど入れ歯である。こんな講演を聞いても手遅れなのだが。
さて、母のとなりに、見知らぬ男性の老人が座っていたという。母は、その人から、話しかけられ、おまけに、講演が終わったあと、
「じゃあ、お元気でね」
と言われ、肩をポンとたたかれたという。ひえ~。
「まあ、ナンパされたのかも?その人、奥さんいるのかしら」
と私が言うと、
「お昼は、島田橋のやぶそばで食べている、と言っていたから、きっといないんじゃない?」
と言う。
「だったら、今度、ためしに、お昼時に島田橋やぶに行ってみたら?」
と言うと
「でも、○○さん(注:近所にいる放送局で、過去「鉄のおばさん」で書いたすごいおばさん)に見られたら、何言われるかわからないしねえ」
という。そうだそうだ、あの鉄のおばさんに見られたら、もう、何を言いふらされるか。
「でも、いいじゃん。お互い独身だったら、茶飲み友達くらいになったって、何も悪くないでしょ。年取って男の友達ができるって貴重だよ」
と私が言うと、母もまんざらでもなさそうであった。
 
そして、今日もまた、その老人センターで「老人食の試食会」というのがあったので参加してみたら、その人がいた、と言う。
「しかもね、私のとなりに座ってくるのよ」
と言う。お一人ですか、と聞いたら、そうだ、と答えたそうなので、これで二人とも独身であることが確認された。
「彼氏になったら紹介してね」
と冷やかしておいたけど、女は、いくつになっても、男の人から話しかけられるのがウレシイ、という話でした。しかし、老母とこんな会話をするようになるとは夢にも思っていなかったけれど。
2011/01/20

大学生の就職率

大学生の就職内定率が、68.8%にとどまっているそうだ。就職を希望する大学生のうち、ざっと10人に3人以上が、まだ就職先を見つけられない状況である。
不況に、円高に、生産拠点の海外シフトに、と、就職の拡大に良い話は全然聞こえてこない。
しかし、である。
 
大学生の母数が、増えすぎていまいか?
 
一昔前までは、ごく限られたエリートしか大学に行かなかった。それが今では、義務教育の延長くらいの感覚で(私もその口だが)大学に行くようになった。4人に1人以上が大学に行く。短大進学率まで含めると、50%を超える。少子化もあいまって、とりわけ、学生を確保しないとつぶれてしまう私立大学は、全入時代にも突入し、カネさえだせば誰でも大学生になれると言っても過言ではない時代になっているらしい。
こう言っては何だが、中には「何、その大学?どこにあるの?」と聞きたくなる大学もある。となると、本当に就職口が少なくなっている(分数の分子が減っている)のか、母数(分母)が大きくなっているのか、いずれなのであろう。あるいはその双方かもしれないが。
 
しかし、大学を卒業して、正社員に就労できないと、生涯、非正規雇用のまま過ごす率が非常に高くなるというデータがある。危ないことだ。小さい企業でもよいから、なんとか正社員の口にありつけないものだろうか。日本にだけとどまっていないで、海外に進路を求めてもいいと思うのだが、内向き志向の日本の若者らには難しい話か。
2011/01/19

中国は道理をわきまえよ (by Wall Street Journal)


支那の胡主席は、今日、ワシントン入りしたようだ。
そこへ、この社説。

中国は道理をわきまえよ 米紙が「攻撃的姿勢」を問題視
2011.1.19 10:29
 18日付の米紙ウォールストリート・ジャーナルは、「強く主張する中国に対処する」と題する社説を掲載、近年の中国の対外姿勢には強引な姿勢が目立つとし、国際社会の中で「気まぐれな妨害者としてではなく、道理をわきまえた利害関係者」として行動すべきだと主張した。

 社説は、ゲーツ米国防長官の今月の中国訪問中に、中国が次世代ステルス戦闘機試作機の初試験飛行を行ったことは「最近の中国の攻撃的な行動パターンと一致し、胡錦濤国家主席の訪米のトーンを決めた」と指摘。攻撃的姿勢の例として
(1)領有権などをめぐりインドネシア、日本、米国に好戦的に対応
(2)民主活動家の劉暁波氏のノーベル平和賞受賞に絡みノルウェーにあからさまに嫌がらせ
(3)北朝鮮を外交的に擁護し、核拡散を支援
(4)グーグルへのサイバー攻撃-などを挙げた。(共同):

いいなあ。
こんな記事、民主党を与党にいだく日本の新聞は、支那様のみけしきを恐れ、絶対に書けないから。(1)なんて特に。

どうせ中華思想で、言論の自由がなく、他国の言うことなど頑として耳を貸さない国だから、言っても無駄だとは思うが、この社説の勇気や良し。