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2011/10/17

これって何なんだろう?

「断捨離」®という言葉が巷で聞かれるようになって久しい。
私も日頃から母に、「着ない服、使わないものは捨ててね」と言っているが、2年前に死んだ父のスーツ類はまだ後生大事にとっている。母は、
「高いカネかけて作ったのに、死んじゃって・・・・」
とつぶやく。私なんか、いくら高いカネかけたにしても、もう着る人もいないんだから、思い切って処分すべきだと思うのだが、まあ、母という立場からしたら、父に対する未練もあって、捨てにくいことは確かだろう。これらは母が死んだら処分することになりそうだ。
それでも、父が持っていたガラクタを含めたブツの数々の処分を頼まれたので、実家に行ってみた。
入院中にでも聞いていたのか、落語家(志ん生)のカセットテープと、再生専用カセットテーププレイヤーが出てきた。今となっては懐かしい昭和のアイテムである。あいにく、落語を聞く趣味がないので、あっさり処分となった。
腕時計は死ぬほど好きな人だった。若い人向けのGショックなんかも持っていたし、それ以外にも4つも5つも出てきた。死ぬ直前に高島屋で二十数万円の腕時計を買ったこともあった。母が「お父さんは、何を言っても聞く人じゃないから」としぶしぶ付いて一緒に購入したが、翌日、父は、急に寿命を悟ったのか、返品に行った。返品に応じてくれた横浜高島屋には、心から感謝している。これらは保存した。
その他、出てくるものに、なぜ父が持っていたのか、不可解なものが多々あった。
仕事を引退した後は、住んでいる団地の植栽のボランティアをしていたのだが、
 
1.金属製の巻尺
これが3つも4つも出てきた。2メートルから3.5メートル計れるものである。
 
2.コンパス
円を描く必要があったとは思えないが、2つも3つも出てきた。
 
そして、これ↓。ものの名称がわからない。どなたか教えていただけないだろうか。
 

 
見ての通り、薄いステンレス(と思われる)の長さ5センチの小さな金属板が、9枚ついて1セットになっている。
おのおのの表面についている数字は、その板の横幅を表し、0.25ミリずつ違っている。
 
そのため、全部束ねて片一方をそろえた状態で撮影すると、
 

 
こんなふうに0.25ミリずつ違う斜度が付くのである。
 
これは一体、何のための道具だろうか?教えてください。
 
 
 
 
蛇足だけれど、こんなものも出てきた↓。いまやなつかしのアイテム、フィルムケース。
昔はよく主婦の友なんかに、「これで小物を整理しましょう」などと出ていたものだ。
イマドキは、珍品である。取って置こう。
 

 
 
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2011/08/26

父の3回忌と母

母の体調が良くないので、ときどき半日有給休暇を取って病院に付き添ったり、週末に家事をやりにいったりしている。
今は夏場で仕事がひまだからいいけれど、私もそうしょっちゅう休めない。役所や民生委員の人に相談したら、やはり介護申請をして、要介護、ないし、要支援の認定を得るのが先決らしい。そうすれば度合いに応じて公的なサービスも使える。父のときも私が申請をしたはずなんだが、どんな書類を書いたのか、きれいに忘れてしまった。
 
しかし、実家に行くと、食器の類が、それこそ売るほどある。
私らが食べ盛りの子供だったころ、ハンバーグやとんかつなどを切り分けるのに使ったナイフやフォーク。
父は、安月給なくせにとにかく客を連れてくるのが好きだった。そのために買い揃えた、来客用の大きな皿やしゃれた取り皿、湯のみやお碗、塗り箸。
いまはもう、家の重しになっているだけで、全然使わない。
よそのおうちは、こういうのって、どう処分しているのだろうか。
一度、不用品業者に掛け合ってみようと提案したが、母は首を横に振る。
私も女なので、1つ1つの食器に対する母の愛着は、十分すぎるほどに理解できる。
しかし、もう、この病気を機会に、愛着を断ち切るときにが来ていると思うのだが。
母には、着物も何着もある。しかし、私は着物を着ないし、体形も母とは全然違うため、もらっても意味がない。
これこそ、今処分したら、母には「寿命が終わった」みたいに感じられるかな。触れないでおこう。
 
そろそろ父が死んで2年になる。仏式の世界では、2年なのになぜか「3回忌」と言うらしい。檀家でもなく、祖母が死んだときにたまたま病院から紹介されただけの寺からは、とっくに「3回忌の法要のお誘い」とかいう葉書が来ていた。気が弱くお人よしな母は、その寺に頼まなければ悪い、ようなことを言ってはオロオロしていたが、私は、
「こんな葉書、むこうもビジネスで年に何千通も出しているだけだから、気にするな」
と説得して、墓地で、見知らぬぼんさんを呼んで貰うことにした。
以前、この、葉書のヌシの寺のぼんさんは、
「しいて寺や墓に参る、という形をとらなくてもいいのです。心の中だけで個人の冥福を祈ればいいのです」
と言っていたけど、言っていることとやっていることが正反対ではないか。
 
父の昔の部下で、おなじ横浜市内に住んでいる人とその妻が、父の3回忌のため、どうしても母を訪ねたい、という電話をしてきたという。私は
「そんなに心臓が弱っているのに、『体調が悪いから』って断った?」
と聞くと、母は
「断ったんだけど、むこうがどうしても来たい、っていうから。奥さんの方は、うちに来たことないから、来たいみたいで、どうしても、どうしても、って言うから」
と言う。こういう母のお人よしにはカチンと来た。自分が立ち歩くのもへとへとな病人なのに、客人など迎える余裕は無いだろう。それに、この夫の方は、以前にも書いたが、他に同じくかつて父の部下だった男2人と来て、葬儀を終えたばかりでへとへとに疲れている母を、昔ながらの支店長夫人だと思って、飯にはたかるし、あげくに、「俺はここが悪い」「俺はここが病気だ」と、老人さながらの病気自慢大会を繰り広げたあげく、3時間も逗留したご当人なのである。また延々居座られたら、こんどこそ母はどうなるかわかったものではない。そう思っていたら、お人よしの母は
「お寿司でも取ろうかねえ」
などと言う。ばか。
私は受話器をむんずと取って、その家に、
「来ていただけるのは本当にありがたいし、故人も喜ぶとは思うのですが、いかんせん母は体調が悪くて通院しておりまして・・・」
と、めいっぱい丁寧な言葉を使ってお断りの電話を入れた。母には到底こんな電話は入れられない。私が悪者になるのは一向に構わない。この男は、あまりに仕事ができないので、東京の本社から干され、長野の父の元に押し付けられた人なのである。父もこの人をどれだけ罵倒してきたかわからない。営業に配属されたのに、30過ぎて免許も持っていなかったので取らせてやり、結婚相手も見つけて仲人をしてやり、と、麻雀の点数計算以外に使えないこの男を父はよく世話をした。
 
思うのだが、世の中、人の通夜とか葬儀、あるいは○回忌に、「お世話になったから一目でも」と言って、無理してでも来ようとする人がいる。私が葬式仏教に興味がないせいかもしれないが、田舎のほうならいざ知らず、都心の葬儀はもうほとんど家族葬なので、「なんでこの人が来るの?」と思うような人(とくに、葬式に燃える田舎の人)が来ると、かなり面食らう。
来なくてもいい、と言われたら、素直に来ないのが都心ではマナーではないのか。
どうしても、どうしても、と言い張るのは、時として、熱意の表れを超えて、迷惑だったりする。受け入れる人の体調が悪いと言っているなら、ごり押ししてまで来るべきではなかろう。どうしても、というなら、手紙の1通でも書く方が、老人世帯にはずっと嬉しいものである。
 
 
 
 
2010/09/06

父一周忌

松戸に住んでいた子供のころから、一家4人で、年に1~2回ほど、東京の下町に一人住まいをしていた老女の家を訪問することがあった。両親は、その人を「東京のおばあちゃん」と呼んでいたが、父の実母であることは、かなりあとになってから知った。父の実母であっても、父を産んだあと、新潟の実家に預けっぱなしにし、育てなかったことは、もっとあとになってから知った。父を産んだのだから、「東京のおばあちゃん」は、昔ちょっとだけ結婚していたらしいのだが、そのことについて聞くのは、我が家の最大のタブーだと母は言った。この「おじいさん」がどんな人なのかを詳しく知る人は、誰一人としていない。
見栄とプライドの塊で、自分が常に周囲からあがめられていなければ気が済まない性格だったから、他人とは絶対に折り合ってゆけず、人生のほとんどを一人で暮らした人だった。アリのように小さく、いつも地面すれすれに腰を曲げて歩いていたが、とにかく怒る人だった。ことあるごとに、なにかにつけて、怒っていた。自分の思う通りにことが進まないと、孫の前であろうと、畳をどん、どんと踏みならしては怒った。怒り出すと、手が付けられなくなり、早々に退散することもあった。
「ああいう人になってはいけない」
というのが父のいつもの教えだったが、子供だった私には、何が言いたいのか、どうしたらいいのか、わからなかった。
「お前は、ばあさんにそっくりだ。ばあさんに似ている」
というのが、我が実家における最大の侮蔑語だった。私が、祖母に似た挙動や言動を示すと、父は、よくこう言って私を叱り、母など、果ては、ハンカチを目にあてて、
「私は、お前が、将来おばあちゃんにそっくりになったらどうしようかと、不安でしょうがないんだよ」
とおいおい泣いたりした。親に泣かれるほど、子供が傷つくことはない。しかしながら、わが親の怒り方は、子供の身に、はなはだ抽象的すぎた。おばあちゃんというのが、あの、東京で一人暮らしをしているあの老女であろうことは推察できた。しかし、どんな人格の人だかわからないあの人に、自分がどう似ているというのか。子供にとっては、大人かそれより年上の人は、みんな偉い人にうつるものだから、ああなってはいけない、とか、似ては困るとか言われても、応じようがなかった。
 
その後、大学に入り、1年間だけ、この「東京のおばあちゃん」の家に住まわせてもらい、両親が言ってきたことがやっと理解できた。世の中では、普通、祖母は孫を可愛がるものだということを知って驚いたのもこのころだ。
 
私が大学に行くのも、両親は猛反対した。父が超のつく薄給だったせいもあったが、私は転校させられた高校が大嫌いだったので、その土地で就職させられるのはたまらなかった。しかも、学歴も知識もない両親は、兄が入った東大の次にレベルの高い大学が津田だと信じ込んでいたので、津田なら良い、と言った。このころから、私は、父の言うことはだいたい間違っていると悟り、それ以降、父の言うことなど無視し、自分の直感で判断するようになった。もちろん、津田ではない大学に行った。
 
後年、私が結婚してからだと思う。何かのきっかけで、私は爆発した。
「お前はおばあちゃんに似ている、おばあちゃんに似ている、と言って私を叱ってきたけど、そんなことを言われたって、私には不可抗力で何にもできない!そんなに似て困るんだったら、産まなきゃよかったでしょう?自分達で勝手に産んでおいて、そんなこと言うなんてひどすぎる!」
と毒づいた。何がきっかけだったかは、完全に忘れた。
「それは、どんなに謝っても謝り足りないことだねえ、ごめんね」
と母は謝ってくれたが、父はただ無言でうつむいていた。
 
両親は、ときどき、
「お前も、年とってからさみしいから、子供を産んでおいたほうがいい」
などとふざけたことを言ったが、私はその都度
「何よ、ばあさんに似た子が産まれたらどうするのよ」
とイヤミたっぷりに反撃したので、やがてその話は出なくなった。私の夫は、私のように、問題のある家庭で育ち、子供を持ちたくない人である。こんな人をわざわざ地球の裏側からさずけてくれた神様は、さすがだとしか言いようが無い。
 
今日で、父が死んでちょうど1年になる。私にばあさんの血を残しておきながら、それをののしった張本人だ。仲が悪かったから、葬儀の時だって、一滴の涙もこぼれなかった。週末に、母が手配して「一周忌の法要」なるものをしたが、見知らぬ坊さんを呼んで経をあげてもらい、かご入りの果物(←この盛り合わの果物は、でかいだけでまずくて食えたものではない)と花をあげただけで、7万数千円も払った。くだらない。これが「葬式仏教」といわれるゆえんである。死者を悼むのなら、心の中で悼めばよい。仏教とか僧侶の力を借りる必然性など、世間体や見栄のため以外に、なぜ必要なのだろう。人間は、死んだらきれいさっぱり忘れ去られるのが一番良い。死んでもなお、他人の時間や労力、金銭を奪ってはならない。母が死んだらもう何もしない、と私は決めている。
2010/07/22

病気に無知だった父

父が死んでから、母は平穏無事に暮らしていると思う。
私が遺言状を書かせていたおかげで、相続にもめることもなく、母が父の遺産をすべて相続できたので、母が死ぬまではまず経済的に困ることも無い。
夫婦だから、いなくてさびしいとか、子供には計り知れない心情もあるだろうが、母の高血圧の主原因であった、頑固じじいとの夫婦喧嘩もなくなった。かかりつけ医師にはずっとかかっているが、最近は、降圧剤も、2日に1度飲めばよいと医師に言われるくらいに減ってきた。
 
父は、自分が頑丈だったこともあると思うが、あきれるほど医学に無知だった。
父には、病気とは「我慢していれば治るもの」という固い思い込みがあった。母がNHKの「今日の健康」などの情報番組で医学のことを学んでいると、必ず
「こんなもの、見るな!」
とどなって、さっさとテレビを切ってしまうのだった。
そんなふうだから、病気で病院に通う人のことを、いつもクソミソに言っていた。母の股関節が変形し、入院して手術を受けたときも、他の見知らぬ入院患者たちにむかって、憎々しげに、
「どいつもこいつも我慢のならないやつばかりだ!」
とののしったので、母は、父のあまりの暴言に怒りあきれ、また、他の患者さんに対して恥ずかしさと申し訳なさで顔が上げられなかった。
 
その後、珍しく、父は、インフルエンザにかかった。日ごろ病気をしない身に、これはかなりこたえた。ところが、回復してから、
「おれ、インフルエンザの予防注射を受けようかなあ」
と言ったのだ。私はのけぞってしまい、
「予防接種は、かかる前に打つの!かかってから打ったって、遅いの!」
と言ったが、父は
「そうかぁ?」
と、信じられない様子だった。
最後には、癌にかかり、やっと病気のつらさと苦しさが理解できたらしい。が、やせてふらふらし、バランスをくずして床に倒れると、あちこちに電話をかけまくり、
「おれは中風になった、中風になった」
と言いふらした。私はまたあきれ果て、
「なんで癌が中風なのよ」
とののしったが、父にとって、「倒れること」は、原因を問わず、何でもかんでも「中風」らしかった。
母の血圧が急にあがり、ふらふらするのでベッドで横になっていたときなども、一応声をかけるにはかけてやっていたのだが、出た言葉はいつも
「熱は下がったのか」
であった。父にとって、横になることは、イコール、熱が出ている、であった。いくら「血圧が高くて」と説明しても無駄だった。
 
あるとき、母が、心理的に深い傷を負い、体重があっと言いう間に減ったときも大変だった。体重が急激に減ると、人体は、それこそバランスを失い、さまざまな変調を見せるらしい。母は、38度以上の発熱をくりかえし、死ぬのではないかと危ぶまれる事態になった。何人もの医師に診せたが、原因は不明であった。ところが、父ときたら、
「これは風邪なんだ、おまえは風邪ひいているんだ」
と言い、医者から風邪薬をもらってきて母に飲ませていた。熱があるだけで、咳も鼻水ものど痛も関節痛も全くない風邪なんて、聞いたことがない。しかし、父にとっては、熱があるとはすべて風邪なのであった。そんな症状に対して風邪薬を処方する医者も医者だが、飲ませる父も父だった。その後、母が回復したのは、奇跡に近い。
 
変な父だった。こんなことはほんの一端で、筆舌に尽くせぬほど変なおやじだった。
2010/03/14

「お線香上げさせてください」は要注意

父の葬儀をした葬儀場は、実家から近い。だから、よく、その前をとおりかかってしまう。
必ず「今日は誰かの葬式があるかな」と、入り口をじっと見てしまうのだが、「○○家通夜」あるいは「○○家告別式」という看板が立っていることは少ない。葬儀場があちこちにあるせいもあるかもしれない。
しかし、人の死、つまり、彼らにとって「仕事」がないからといって、人件費は通年かかっている。

父が死んでからしばらく、実家に、葬儀会社の営業担当が来てしつこかった。

ピンポーンと玄関が鳴るので、母が開けると、
「○○社です。このたびは、ご愁傷様でした。お線香を上げさせていただけませんか」
と言う。母は、人を疑うことをしない人なので、はい、はい、と言って家に上げる。
上げて、焼香をすると、さっそくその人は、母に
「互助会に入りませんか。奥様の葬儀の際には、こんなにお安くできますよ」
と言って、互助会への入会を勧める。我が家は、その葬儀場とは、全く懇意でも何でもなく、ただただ家から一番近い、という理由で使わせてもらっただけである。勿論、父が互助会等に入っていたわけでもない。父が死に、電話をし、葬儀を頼んだだけである。請求されたぎょっとするくらいの葬儀代は、すぐに全額払った。彼らにとっては、大変カネ払いの良い客に写ったのかもしれない。

その後も、母は、
「また今日も『お焼香させてくれませんか』って言って、この間の人とは別の営業の人が来たのよ。で、互助会に入ってくれ、って言われたの」
などと電話をしてきた。私は、母のお人よしを知っているので、
「何ではっきり『入りません』って言わないの?私も比べてみたけど、互助会に入るからと言って、そうそう安くなるわけでもないよ。それに、母のときには、ここに住んでいるとも限らないでしょう」
などと言っても、お人よしの母は、うじうじ、
「でも、悪いから」
などという。私は聞いていて、どんどん機嫌が悪くなる。おまけに、
「あの葬儀のとき、司会進行の人がなんとなく親切でなかった気がするけど、金一封を包んであげるべきだったのかしら」
などと、どうでもいいような過去のことを後悔している。私は切れそうになり、
「何言ってるの、司会進行をするのは彼らの仕事でしょ!あれで十分だったじゃない。それに、葬儀代をウン百万も払って、何でそれ以上チップを払わないといけないの?バカなこと言わないで」
と母を叱った。

ある日、私がたまたま実家にいたとき、偶然、また営業が来た。例によって
「お線香を上げさせてください」
と言う。が、私は、ぬらくらした母に代わって、
「あの、もういくら来ていただいても、互助会には入りませんから」
と言った。

それだけで、もうそれ以降、誰も来なくなった。
ったく、お人よしで優柔不断は母を持つと苦労する。
ま、それだから、害がなく、敵が少なくて、誰からも好かれる母ではあるのだが。